お寺の由来

慶長八年四月二十五日(1602年)に京都妙覚寺の僧、唯心院日忠は九州布教の折り、博多蓮池の妙典寺に招待されました。
 
その際、キリシタン徒イルマン(宣教師)旧澤、安都と宗教問答をして勝利を得ました。
  
福岡藩主黒田長政公はその功績を讃えるため、キリシタン教徒の居留地を日忠に下腸しました。
  
宗教問答に勝ったことから長政の命で、寺号を"勝って立つ寺"の「勝立寺」と名付けられました。
  
その本堂(十間四面)は小早川隆景公が建立した名島城本丸の書院をこれに当てました。
  
勝立寺が建立された場所は福岡と博多の町を結ぶ福岡随一の要衝の地で、枡形門に隣接したところでもありました。
  
このような建立のいわれを持つ勝立寺は寛永十一年(1633年)、徳川幕府の手による本末帖の書き上げの際にもその名が記載され、中本寺格として格付けされ六ヶ寺の末寺を持つに至りました。
 
 

慶長八年四月二十五日(1602年)に京都妙覚寺の僧、唯心院日忠は九州布教の折り、博多蓮池の妙典寺に招待されました。
 
その際、キリシタン徒イルマン(宣教師)旧澤、安都と宗教問答をして勝利を得ました。
  
福岡藩主黒田長政公はその功績を讃えるため、キリシタン教徒の居留地を日忠に下腸しました。
  
宗教問答に勝ったことから長政の命で、寺号を"勝って立つ寺"の「勝立寺」と名付けられました。
 

  
 

その本堂(十間四面)は小早川隆景公が建立した名島城本丸の書院をこれに当てました。
  
勝立寺が建立された場所は福岡と博多の町を結ぶ福岡随一の要衝の地で、枡形門に隣接したところでもありました。
  
このような建立のいわれを持つ勝立寺は寛永十一年(1633年)、徳川幕府の手による本末帖の書き上げの際にもその名が記載され、中本寺格として格付けされ六ヶ寺の末寺を持つに至りました。



境内には大名町出身の陸軍大将・明石元二郎(1864~1919)の遺髪・爪が収められた墓、西南戦争時に置かれた征討軍本営の碑がある。

境内には大名町出身の陸軍大将・明石元二郎(1864~1919)の遺髪・爪が収められた墓、西南戦争時に置かれた征討軍本営の碑がある。