日蓮宗正興山勝立寺

勝立寺とは

勝立寺の立地

もとの町名は橋口町である。江戸時代から続いた町名で、博多から福岡に通じる中島町の橋口にあったのが町名の起こり、戦後、昭和通りが出来て町筋は南北二つに分かれた。南側が天神一、北側が天神四になった。
 
勝立寺も周囲の高層ビルに没したかのようだが、寺内の楠の樹木が山門前まで覆いかぶさるように茂り、舗装道路の味気ない通りの環境を和らげている。
 
しかし、勝立寺も二十年の空襲で一物の残さず全焼。二年半がかりで五十八年に落慶したというだけに、真新しく立派な色彩の寺に生まれ変わった。
 

江戸時代の勝立寺

江戸時代の勝立寺

 
現在の勝立寺

現在の勝立寺

寺伝説話

正確な寺号を「日蓮宗正法正興山問答勝立寺」という。寺号の名付け親は、福岡初代黒田長政です。
 
寺号の「問答」というのは、いまの中呉服町(旧蓮池町)にある妙典寺において、慶長八年(1603年)四月二十五日、日蓮宗の僧で唯心院日忠上人が、キリスト教徒(当時の耶蘇教)のイルマン(宣教師)旧沢、安都の二人を相手にして、宗教上の法論を論じ合い、その優劣を競った結果、仏教側の日忠上人が勝ちました。
 
このことを聞いた黒田長政が、これを賞して日忠上人に一字を建立する寺地を与え、加えて長い寺号を贈りました。 この妙典寺における日忠上人と、キリスト教徒との問答を称して、のちに「石城問答」といいます。

名付け親 黒田長政公

名付け親 黒田長政公

偶然の因縁

正興山勝立寺の寺伝を縁起にたどってみると、先人はよくいったものである。

「袖触れあうも、他生の縁」
「偶然の知己も人の運命の一部なり」

他生とは、仏法でいう前世、来世からの因縁で結ばれているという意味である。
日蓮宗正興山勝立寺の開山の僧日忠上人の経緯をみると、もともとが武家の出自。闇討ちされた親の怨念を晴らす仇討ちの途中、日忠は偶然にも一人の僧と出会った。
 
この僧との偶然の出会いが、日忠上人の僧としての生涯を決する因縁となった。 

日忠 上人

蒙古塚供養塔

志賀島に元寇の役で戦死した蒙古軍兵士の石塔墓地がある。志賀島の史跡めぐりには、かならずこの蒙古兵の首塚がコースにとりいれられている。急なコンクリートの階段を登りつめると、「南無妙法蓮華経」の高い石塔をみる。
 
志賀島の海に向かって建つ蒙古兵魂の「いしぶみ」である。
 
この供養塔は、弘安四年(1281年)六月の第二次元寇の役で、不運にも異国の地に散華した蒙古軍将兵供養のため、昭和三年(1928年)五月二十五日建立されたものである。

建立者は、勝立寺第三十一世 新野正観 上人である。 
 

蒙古塚供養塔

蒙古塚供養塔

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